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アメリカ合衆国の戦争犯罪ニュース・2015/6~1
2015・6・23 ユーチューブ 大注目
【高橋史朗】あらためて『GHQ洗脳政策』を考える[桜H27/6/23]
「コメント」
我々は、戦後日本の頸木を評して「戦後レジーム」と呼んでいるが、その根本にあるのはGHQによる洗脳教育であり、具体的にはWGIPである。今回は、教育者として戦後レジーム脱却に挑む高橋史朗教授をお招きし、ブラッドフォード・スミスに始まる占領政策の系譜と中帰連との類似性、現在の憲法論議へのアプローチや、日本の立場の海外発信等についてお話しいただきます。
 ※大日本帝国が戦争犯罪に問われた原点が語られている。
2015・6・14 Record China 翻訳・編集/増田聡太郎)
中国軍事委員会副主席、侵略の罪を認めない安倍首相を批判―米国
「記事全内容」
2015年6月13日、フェニックステレビ公式サイトは記事「范長竜、米国でフライング・タイガース元隊員と会見=“侵略の罪を認めない安倍首相”を批判」を掲載した。
米国訪問中の范長竜(ファン・チャンロン)中国共産党中央軍事委員会副主席は12日午前、フライング・タイガースの元隊員、その子弟と会見した。フライング・タイガースとは日中戦争期に中国国民党軍を支援した米義勇軍の航空部隊。
中国は現在、第二次世界大戦は反ファシズム戦争であり、中国と米国は肩を並べて共通の敵・日本と戦ったとの歴史認識を喧伝している。
フライング・タイガースは米中両国の懸け橋として高く評価されており、元隊員やその子弟は今年9月3日に予定されている抗日戦争勝利記念日の軍事パレードに招待されることが決まっている。
范副主席は元隊員たちを前に、日本の侵略者は中国人民に巨大な傷を負わせ3500万人もの死者を出したが、二次大戦の成果を認めず歴史を歪曲(わいきょく)していると批判。
「ドイツのように罪を認めることもなく、二次大戦の成果を否定し、二次大戦の歴史を否定し、従軍慰安婦を否定し、靖国神社への参拝を続けている。
中国人民と世界反ファシズム戦争に参加した人民が絶対に許すことのできない振る舞いだ」と発言した。
 
間抜け、無知にもほどがある。
墓穴を掘ったな! 中華民国に対しアメリカが軍事援助した証、これこそ
国際法違反である。
愚か者。
2015・6・10 産経ニュース 共同 
長崎の悲劇「避けられた」 原爆投下、技術者も反対
「記事全内容」
米国が原爆を開発した「マンハッタン計画」に技術者として参加したジェームズ・ショーキ氏(91)は9日までに米フロリダ州の自宅で共同通信の取材に応じ、市民を巻き込む原爆の実戦使用には反対だったと証言、少なくとも「長崎への投下は避けられたはずだ」と述べた。
マンハッタン計画には、科学者のほか技術者、兵士などピーク時には約12万5千人が参加したといわれる。
原爆の破壊力を熟知した科学者の間では実戦使用をためらう声があったことが知られているが、ショーキ氏の発言は現場の技術者の間でも消極的な意見が広がっていた実態を裏付けるものだ。
ショーキ氏は特に長崎への投下について「二つ目の原爆に動揺した。日本政府は(広島投下で)混乱しており、もう少し時間を与えるべきだった」と指摘。
広島投下だけでポツダム宣言の早期受諾に結びついたはずとの認識を示した。
さらに「(1945年7月の米西部ニューメキシコ州)アラモゴードでの(人類初の核)実験で、原爆がすさまじい兵器だと知った」と振り返り、投下には反対だったと語った。
 
原爆は大東亜戦争勝利国のエゴ、アメリカは国が存在し続ける限り、嘘をつき続けるのであろう。
日本は世界に嘘が無い世にする為に努力する必要があるが、世界から嘘を排除出来るのは日本だけだろう。
2015・6・10 産経ニュース 台北=田中靖人 
台湾国防部が対日戦参加の米機「復刻」 撃墜数示す「日章旗」に日本側「配慮に欠ける」
「記事全内容」
台湾の国防部(国防省に相当)は9日までに、日中戦争で国民党軍を支援した米航空義勇隊「フライング・タイガース」の塗装を施した空軍機を公開した。
中国に対抗し、戦争の主体が「中華民国」だったことを改めて強調する狙いがある。
当時の塗装が「再現」されたのは、F16と経国(IDF)の各2機。
「抗日戦勝利70周年」を記念して7月に行う「戦力展示」に参加する。
ただ、操縦席の脇には「撃墜数」を表す日章旗が描かれており、日本側関係者は「現代の戦闘機にこのような塗装をする意味があるのか。日台関係への配慮に欠ける」と不快感を示している。
一方、国防部は9日、日中戦争で従軍した元兵士らに勲章を授与すると発表した。
申請があれば中国大陸の居住者も対象とする。
勲章は、1946年10月に授与された「抗戦勝利記念章」の復刻版。
日中戦争の発端となった衝突が起きた盧溝橋の上に、蒋介石の肖像などが描かれている。
国防部は今回、6000個を準備。
申請者の国籍や居住地は問わないとしている。
申請受け付け後、部隊や階級を確認するとしているが、従軍した将兵の総数も不明といい、手続きは形式的なものになりそうである。
 
台湾人の心中を考えれば、心が痛む。
日本はこのニュース反論すべきでは無い。
大日本帝国と戦った中華民国が自らフライングタイガーを製作し、中華民国とアメリカの戦争犯罪を立証しているのである。
2015・6・8 産経ニュース (1/5ページ) 編集委員 岡部伸 注目記事 【歴史戦】 アメリカ、シナの実態!
GHQ工作 贖罪意識植え付け 中共の日本捕虜「洗脳」が原点 英公文書館所蔵の秘密文書で判明
「記事内容抜粋」
占領下の日本国民に戦争に対する贖罪(しょくざい)意識を植え付けるため連合国軍総司令部(GHQ)が、中国・延安で中国共産党が野坂参三元共産党議長を通じて日本軍捕虜に行った心理戦(洗脳工作)の手法を取り入れたことが英国立公文書館所蔵の秘密文書で判明した。
GHQの工作は、「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」と呼ばれ、現在に至るまで日本人の歴史観に大きな影響を与えている。
文書は、GHQでマッカーサーの政治顧問付補佐官だった米国の外交官、ジョン・エマーソンが、1957年3月12日、共産主義者との疑惑が浮上したカナダの外交官、ハーバート・ノーマンとの関連で米上院国内治安小委員会で証言した記録で、「ノーマン・ファイル」(KV2/3261)にあった。
44年11月に米軍事視察団の戦時情報局(OWI)要員として延安を訪問したエマーソンは、中国共産党の支配下で野坂参三(延安では岡野進と称した)元議長が日本軍捕虜の思想改造に成功した、として「岡野と日本人民解放連盟が行った活動の経験と業績が、対日戦争(政策)に役立つと確信した」と証言。
さらに「共産主義者の組織であったが、捕虜たちが反軍国主義や反戦活動に喜んで参加するまで吹き込み(洗脳)に成功したことから彼らの成果はわれわれ(米国)の対日政策に貢献できると思った」と述べている。
  自虐史観、今も日本人に影響 軍国主義者と国民「二分法」駆使
中略
GHQは、「洗脳」手法を積極的に取り入れ、東京裁判などの節目で展開し、「悪い侵略戦争をした」と日本人に自虐史観を植え付けたといえる。
二分法 「共通の敵を打倒するため連帯できる諸勢力と共闘する」との毛沢東の理論。
中国共産党は、戦後一貫して少数の軍国主義者と大多数の日本人民を区分する対日外交政策を取っている。
1972年の日中国交正常化の際、中国内の反日感情を抑制するための根拠として使われた。
教科書問題や靖国問題でも同じ論法をとっている。
  ■反日プロパガンダ招いた壮大な「歴史戦」 外交評論家・加瀬英明氏
  【用語解説】「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」
 
よく資料を探し当てたものである。
これもアメリカとシナノ戦争犯罪、アメリカもシナも卑怯で卑劣な民族である。
これで私の日本人に対する疑念が晴れた。
南京大虐殺があったと大日本帝国軍人が証言した動画があったが、残念な事であるが彼等も洗脳されているのであろう。
アメリカに届け!日本人の思い
2015・5・10 産経WEST (1/2ページ) 【記憶の中に】 
淀川河川敷に女学生ら千人以上の遺体…大阪市旭区「千人塚」法要、今年が最後
「記事内容抜粋」
大阪市の北東部を狙って昭和20年6月7日に米軍が行った大空襲から間もなく70年。
千数百人もの犠牲者が埋葬された淀川河川敷で営まれる慰霊法要も今年で70回目の節目を迎える。
空襲を生き延びた人や遺族らの高齢化が進み、これまで通りの法要を行うのは今回で最後。長年にわたり慰霊を続けてきた関係者は「今後も何らかの形で弔いを続け、戦争は繰り返してはならないという思いを伝えていきたい」と話す。 大阪市旭区の城北公園。
その北側を走る淀川堤防に、石碑と小さな社がある。通称「千人塚」。
中略
東浦さんは「空襲を生き延びた人たちも高齢になった。
戦没者も納得してくれると思う」と話した。
 
この事例は、アメリカの日本本土無差別攻撃大空襲のほんの一部にしか過ぎない。
2015・5・6 ユーチューブ 注目動画 
平成25年08月04日「ヴェノナ文書が暴いたルーズヴェルトの戦争責任」講師:江崎道朗先生
「コメント」
スタジオ日本・特別報道番組 第8弾  日本会議福岡 第9回 追悼・感謝 英霊顕彰・県民の集い(平成25年8月4日開催)
[趣旨]
「ヴェノナ文書」が暴いたコミンテルンの戦争責任
■コミンテルンのスパイを暴いた「ヴェノナ文書」の衝撃
第二次世界大戦前後の時期に、アメリカ政府内部に多数のソ連のスパイが潜入していることを暴いた「ヴェノナ文書」の公開以降、同国内では、「ルーズヴェルト政権はソ連や中国共産党と通じていたのではないか」という古くからの疑念が、確信へと変わりつつある。
当然、当時をめぐる歴史観の見直しも進んでいる。
しかも、そのピッチは近年、急加速していると言ってよい。
ヴェノナ文書とは、第二次世界大戦前後の時期にアメリカ国内のソ連のスパイたちがモスクワの諜報本部とやり取りした秘密通信を、アメリカ陸軍情報部が秘密裡に傍受し解読した記録である。
1995年、アメリカ国家安全保障局(NSA)が公開した。
これら機密文書が次々と公開され、その研究が進んできた結果、ルーズヴェルト大統領の側近であったアルジャー・ヒス(傍線は共産党員又は協力者と思われる人物。以下同じ)を始めとする二百人以上のスパイ(あるいは協力者)が政府官僚として働いていたことが立証されつつあるのだ。
ヴェノナ文書が暴いたルーズヴェルトの戦争責任
2015・4・6 毎日新聞 樋口岳大
<原子力「災難」>目前に模擬原爆落下 今は原発訴訟原告
「記事内容抜粋」
原爆投下の訓練のため、米軍は70年前、長崎原爆と同じ形状の「模擬原爆」を日本各地に投下した。
福島市でそのうちの1発に遭遇した木戸大治(だいじ)さん(74)=福島県国見町=が、3月に発行された福島第1原発事故を巡る集団訴訟の原告団証言集に体験を寄せた。
1945年7月20日午前8時半ごろ、木戸さんは兄2人と共に自宅近くの井戸で水くみをしていた時、強い衝撃を感じた。「突然、ズシーンという重低音と共に顔面と頭に砂みたいなものが当たった」。
木戸さんがいたのは模擬原爆の投下地点から約400メートル。
別の場所で農作業をしていた14歳の少年が死亡した。
模擬原爆は長崎に投下されたプルトニウム型原爆「ファットマン」(直径約1・5メートル、長さ約3・3メートル、重さ約4・5トン)と同じ形状で、通常の爆薬が詰められていた。
カボチャに似た色や形から通称「パンプキン」と呼ばれた。
45年7月20日~8月14日、全国に計49発投下され、400人以上が犠牲になったとされる。
当時5歳だった木戸さんは模擬原爆とは知らなかったが、東京の印刷会社を定年退職して帰郷後の十数年前、福島市であった模擬原爆の破片などの展示を見て、記憶がよみがえった。
その後、模擬原爆の経緯などが詳細に記された地元紙の記事を見て、「自分が遭ったのは模擬原爆だった」と確信したという。
木戸さんの自宅は福島第1原発から約65キロ。定年後は義兄の桃栽培を手伝っていたが、原発事故後は桃が売れなくなった。
義兄は栽培を断念し、270本あった桃の木を全て切り倒してしまった。
木戸さんは、約3900人が国と東京電力に原状回復と損害賠償を求めた「生業(なりわい)訴訟」の原告となり、かつて長崎で被爆者らを取材した元NHKディレクターの根本仁さん(67)の呼び掛けに応じ、証言を寄せた。
模擬原爆を使った訓練を経て、米軍は広島、長崎に原爆を投下した。
その66年後に起きた福島の原発事故。
木戸さんは「爆弾であろうが、原発だろうが、核という根っこは同じだ」と憤り「原発は全部なくしてほしい」と訴える。
証言集第3集は木戸さんら原告19人の証言を収録している。
1部500円(送料別)。
希望者は根本さん(024・558・0517)。
 
この記事、親シナ・親韓国の新聞社が反米を煽っているのか? 毎日新聞報道が気がかりである。
2015・3・19 産経ニュース (1/6ページ) 【戦後70年~大空襲・証言(12)】
東京に続いて狙われた大阪「炎の中でも動いた地下鉄、大阪劇場の屋根には焼夷弾が吸い込まれ…」高塚宏一さん(74)=東京都小金井市在住
「記事内容抜粋」
東京の下町が焼かれた大空襲からわずか数日後の昭和20年3月13日深夜から14日にかけて、B29は大阪でも容赦なく大規模な空襲を行いました。
大人の中には「東京の次は大阪だろう」という人も多くて、ある程度の心構えをしていた人もいたと思いますよ。
ただ、私は当時まだ4歳でしたから、東京大空襲のことなど知るはずもなく、ただ恐ろしくて泣くばかりでした。 
大阪市南区(現中央区)の日本橋に住んでいました。
自宅前の幅の広い道路には市電が走っていて、近くには生國魂神社やデパートがあったことを覚えているよ。
難波の千日前も歩いて行ける距離だったね。
2015・3・18 産経ニュース (1/5ページ)  【戦後70年~大空襲・証言(11)】
壊滅した深川から漂うのは「油の刺激臭、煙でいぶされた臭い、髪の毛が焦げた臭い、遺体の腐敗臭…」松崎静江さん(83)=東京都新宿区在住
「記事内容抜粋」
東京の下町が一夜にして焦土に変わった昭和20年3月10日未明、私は自宅のあった対岸の月島から、本所や深川が燃えている様子を見つめていました。 
空襲警報が鳴ったとほぼ同時に、編隊を組んで飛んでくるB29の黒い影が雲の切れ目から見えたの。
月島の真上あたりで投下された焼夷(しょうい)弾が、風に流されるようにして深川方面に落ちていったのよ。 
いくつも束ねられていた焼夷弾がばらばらと降ってくる様子は、まさに雨のようだった。
深川周辺はあっという間に真っ赤に染まって、空は新聞が読めるほどの明るさだったの。
ものすごい勢いの熱風とともに火の粉や火がついたままの紙くず、布きれだとかが月島まで飛んでくるようになるまで、さほど時間はかからなかったわね。 
当時、私は13歳。昭和18年ごろに母と妹が新潟に疎開していましたから、父と兄との3人暮らしでした。
  「月島を守らなければ」飛んでくる火の粉を走ってはたたき落と
  橋の下を流れる多数の遺体、日に日にふやけ、膨らんでいき…
  学徒動員先で迎えた終戦の日、「もう空襲はなくなるのだなあ」
2015・3・17 産経ニュース (1/5ページ) 【戦後70年~大空襲・証言(10)】 
焼き尽くされ、人の気配も生活音もなし「上野から、建物で遮られていた東京湾が見えた」平井道信さん(79)=群馬県板倉町在住
「記事内容抜粋」
もともとは東京都下谷区(現台東区)の根岸あたりに両親、祖母、弟と暮らしていました。その家は昭和19年冬ごろの空襲で焼け出されてしまって、徳川将軍家の菩提寺(ぼだいじ)で有名な寛永寺に近い上野桜木の借家に引っ越し、そこで3月10日の下町大空襲を迎えました。当時は9歳でした。 やはり空襲警報が鳴ると緊張はしますよ。ただね、あまりにも空襲に慣れてしまっていたので、冷静に防空頭巾をかぶり逃げる準備を始めました。上野の高台からは、浅草方面の空にB29が無数舞っていて、地面近くが赤々と燃える様子が見えました。 判断力もさえていました。B29の多さからして、隣組との共同の防空壕(ごう)は簡素すぎて身を守れないと直感で思ったんだ。
  ■「遺体を運んでいるようだったけど、真っ黒な炭になっていて…」
  ■芝生を剥がしてサツマイモ栽培、でも空襲激化で収穫できず…
  ■「東京はどうなっているかなあ」線路に耳付け故郷を感じる疎開生活
  ■食料も、住むところも、着るものもなく…ヤミ屋で暮らす日々
2015・3・16 産経ニュース (1/5ページ) 【戦後70年~大空襲・証言(9)】  
「炎と熱気でままならない呼吸。叫ぼうとしも喉が…」山田浩子さん(83)=東京都練馬区在住
「記事内容抜粋」
戦争に関する記憶といえば、空襲と恐ろしさと、戦後の食糧難よね。 
東京の下町を焼き尽くした昭和20年3月10日の大空襲の後も、B29は容赦なく焼夷(しょうい)弾を落とし続けました。当時、私は13歳。通っていた桜蔭高等女学校(現在の桜蔭学園中学校)では竹やりの訓練もしていましたけれど、焼夷弾との圧倒的な力の差を見せつけられ、米国の科学にはかなわないと思っていました。 
さらに私を不安にさせたのが、空襲が山の手地域にも広がってきていることでした。
そして4月13日深夜、城北大空襲で小石川区(現文京区)にあった自宅を失ったのです。
2015・3・15 産経ニュース (1/6ページ) 【戦後70年~大空襲・証言(8)】
全身大やけどで倒れ込む男性「若い女性が、赤ん坊抱きながら『お父ちゃんが死んじゃった』と泣きわめいて…」立川国紀さん(75)=千葉市在住
「記事内容抜粋」
3月10日の下町大空襲は私の住んでいた地域を直撃しました。
自宅があったのは、現在の住所でいう東京都江東区三好2丁目あたりです。
白河、清澄と並び壊滅的な被害を受けといわれています。 
昭和19年ごろに父は東インド諸島に技師として出征し、40代前半だった母が家を守っていました。
子供は姉と妹2人、そして5歳だった私の計4人。近所の人たちが「ひどい空襲がおきれば、逃げ遅れて真っ先に犠牲になるのは立川さんのところだろう」と噂するほどでしたから、母は幼い子供たちも守らなければいけない、家も守らなければいけないと必死に1日1日をすごしていたと思います。
10日未明、「バババババーン!」とものすごい音ともに、自宅からわずか50メートルほどの距離のところに焼夷(しょうい)弾が落ちました。
2015・3・14 産経ニュース (1/6ページ) 【戦後70年~大空襲・証言(7)】
背負った子の死に気付かぬ母親「首や手足もげてる子も…」堀越美恵子さん(80)=埼玉県羽生市在住
「記事内容抜粋」
私には2つの忘れられない空襲があります。
東京の下町を襲った、いわゆる「東京大空襲」と、疎開先の熊谷で遭遇した、終戦前夜の空襲です。
怖かった。
恐ろしかった。 
昭和20年3月、国民学校の4年から5年に上がる春、私はちょうど10歳でした。
自宅は千葉県市川市で、両親と兄、弟、妹の一家6人で住んでいましたが、父の勤務する研究所が東京・深川にありました。 
誰もが空腹と空襲におびえる日々。
父は食糧増産、巨大野菜生産のため、植物成長ホルモンの研究や、兵隊さんたちが携行する保存食などの開発した。
バナナをまるごと3分の1くらいの大きさになるまで乾燥させたものだとか、今でいうドライフルーツみたいなものが多かったように記憶しています。
  ■「ヒタ、ヒタ…」今も耳に残る、うつろな目で前見据え、裸足を引きずる足音
  ■終戦前夜、再び経験した空襲
  ■「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」防空壕内で一斉に唱和 
  ■「なぜ、最後に空襲されなければならないのか」
2015・3・14 産経ニュース (1/3ページ) 【戦後70年】  
東京大空襲の記憶を後世に伝える活動、都内各地で 被害状況の詳細分析も
「記事内容抜粋」
先の大戦末期に10万人以上の命が犠牲となったとされる東京大空襲から70年が過ぎた。
下町を中心に、東京が焼け野原となった悲劇を決して忘れず、若い世代にしっかり伝えていこうと、都内各地では被害の実態を検証する企画展や写真展など、平和を願うさまざまな活動が行われている。
  地域別被害状況の地図も展示  語り部の話を集めた記録集を発行  庁舎内でも展示  
 
国が主催して大々的にやってはどうか? 日本人の声を思いをアメリカに届ける必要があるハズである。 
2015・3・13 産経ニュース (1/6ページ) 【戦後70年~大空襲・証言(6)】 
「このままでは死んでしまう!」びしょ濡れの布団かぶり火の粉の中へ「火だるまになって倒れる人も…」吉田昭子さん(78)=東京都府中市在住
「記事内容抜粋」
東京の空襲というと、京王線幡ケ谷駅(東京都渋谷区)の近くに住んでいた私はどうしても5月25日深夜の「山の手大空襲」が思い起こされるわね。
見たことがないほど多くのB29が空を埋めていて、焼夷(しょうい)弾を投下する光景に圧倒されて声を失いました。
当時は8歳と幼かったけれど、空襲の被害を小さくとどめるための建物疎開で渋谷区内を転々としていたし、24日の夜にも表参道周辺で大きな空襲があったことは知っていたから、ついに来たと思ったものよ。
2015・3・12 産経ニュース 【戦後70年~大空襲・証言(5)】
「寒い日だったが、焼夷弾で地面が温かかった」石渡元治さん(80)=東京都板橋区在住
「記事内容抜粋」
自宅は東京都王子区(現北区)にありました。
当時は10歳。
東京大空襲があった昭和20年3月10日は南の空が真っ赤になり、昼間のように輝いていました。
しかし、空襲の恐ろしさを実感させられたのは、その直後、焼け跡の整理のため駆り出された父のげんなりして帰宅した様子と、その話からでした。 
黒こげの遺体をトラックに運び込む仕事を1日中やらされ、食事ものどを通らずやつれた様子でした。
「これじゃあ、もうだめだ」。
父がささやいた言葉は今もはっきりと覚えています。 
空襲は自分たちの身にも降りかかってきました。
4月13日夜、城北大空襲に遭ったのです。
陸軍造兵廠(しょう)や被服廠を狙ったものとされるけど、実際には周辺に暮らしていた私たち一般市民の頭上に焼夷(しょうい)弾の雨を降らせたわけです。
 
大分市の中心街も空襲で焼け野が原になったが、幸いにも母が住んでいたのが大分市中心部から4km程離れた山中だった。
空襲は夜行われ 「空が夕日の様に赤く燃え、その明りで新聞が読める程だった」 と既に亡き母や叔父から聞いた。
空爆後、「中心街の土地の地主が変わった」 と世に出て聞いた。
2015・3・11 産経ニュース (1/3ページ) 【戦後70年~大空襲・証言(4)】  
四方を火に阻まれ、やむなく自宅へ「ここが最期かなあ。死ぬのかなあ…」玉生うめ子さん(97)=横浜市保土ケ谷区在住
「記事内容抜粋」
当時は26歳で、嫁ぎ先の東京都大森区(現大田区)で夫と暮らしていました。 
私は大森へ嫁いでいて、実家のある深川区(現江東区)には、母と弟が暮らしていて、昭和20年3月10日の東京大空襲で被災しました。
私は大森から見ていたのだけど、東京方面の空が真っ赤でね。
人づてに実家のある下町地域が焼けたと聞いたので、翌日、おにぎりを持って水筒に水を入れて、夫と大森から都電で東京駅まで向かったのです。 
東京へ着いた後は徒歩で、隅田川にかかる新大橋へと歩いて行った。
一面焼け野原になっていて、遠くまで一望できたの。新大橋の手前に憲兵が立っていて、「ここから先はいけない」と足止めされました。
でも、この先に親がいると説明すると橋を渡らせてくれました。
2015・3・11 カナロコ by 神奈川新聞    【戦後70年~大空襲】
東京大空襲:生き証人が情景伝え 藤沢で勉強会
「記事内容抜粋」
「あの時、私は…」-。
70年前の 「東京大空襲」 の情景を、さまざまな形で見聞きした人たちに回想してもらう催しが10日、藤沢市内で開かれた。
「この世の地獄だった」「東京の空が真っ赤に染まっていた」。
生き証人たちは、記憶の糸を手繰り寄せ、自分だけの空襲史を伝えた。
70年の節目に合わせ、平和運動に携わる市民有志が内輪の勉強会として企画。
いずれも藤沢市内に住む上野武雄さん(88)、保坂治男さん(83)ら4人が当時を振り返った。
高等師範学校の生徒だった上野さんは当時、大塚消防署(現文京区)に勤務。
3月9日夜から宿直当番に就いていたが、夜中に空襲警報が鳴り響いた。
「署の望楼に登り、真っ赤に燃える空を何時間も眺めていた。ラジオでは『庶民が逃げ回っている』と」
 ※何故、メデジアはこの声をアメリカに届けようとしないのか? 不思議でならない。
何を考えて報じているのか? アメリカの戦争犯罪を問うべきだろう。
2015・3・10 産経ニュース (1/5ページ) 写真報道局 松本健吾 【戦後70年~大空襲 番外編】
幻の写真見つかる 炎に焼けた下町の空…3・10の惨状を 炎をかいくぐって撮影を続けた男たち
「記事内容抜粋」
推計10万人超が犠牲になった昭和20年3月10日の東京大空襲から10日で70年となる。
未明の無差別爆撃だった上、軍が厳しい報道管制を敷いた時代だけに、これまで東京大空襲の最中に地上撮影した写真は存在しないとされていたが、炎上する東京の様子をとらえた写真9枚が残っていたことが分かった。
カメラマンの遺族が保管するフィルムを東京大空襲・戦災資料センター(東京都江東区)が調査・分析した。
あの日、猛火をかいくぐりながら東京の惨状を撮り続けた男たちの姿を追った-。
2015・3・11 産経ニュース 写真報道局 奈須稔 上の記事の補足記事
大空襲と今 つなぐ意志
「記事内容抜粋」
推計で10万人超が犠牲となった昭和20年3月10日の東京大空襲から70年。
10日付朝刊の1面には、米軍が撮影した空襲後の焼け野原と、現在の東京の空撮写真を1枚につなぎ合わせて掲載しました。 
高層ビルが林立する現在の東京で、空襲の惨劇と復興をどう伝えるか。
米軍が撮った写真と同じ角度から撮影するため2度の空撮を行い、過去と現在をつなぐ写真の中央には、多くの人が炎に追われ飛び込んだ隅田川を配置しました。 
掲載したのはヘリからの空撮でしたが、70年前、陸軍関係者や警視庁のカメラマンが空襲後に撮影したのと同じ場所も歩きました。
GHQ(連合国軍総司令部)の接収を逃れ命がけで守られた写真は、燃え上がる町や、逃げ惑う市民に肉薄しています。事実を記録しようとする当時の日本人カメラマンの強い意志を感じました。
2015・3・10 朝日新聞デジタル 【戦後70年~大空襲】 
(戦後70年)空襲、街ごと標的 火の海に
「記事内容抜粋」
  ■迫る炎、赤子抱え母は川へ 東京大空襲、一夜で死者10万人
軒先の防火水槽に氷がはる、寒い夜だった。
「落ちたぞ。逃げろ」
1945年3月10日未明。
東京・亀沢(現・墨田区)に暮らしていた橋本代志子(よしこ)さん(93)=千葉県船橋市=は、父の叫び声で、押し入れの床下に掘っていた防空壕(ごう)を飛び出した。
北の空が炎で赤く染まっていた。
米軍のB29爆撃機が、轟音(ごうおん)を響かせながら、次々と焼夷(しょうい)弾を投下していく。
まるで電柱すれすれを飛んでいるかのように、大きく、迫って見えた。
橋本さんは、当時23歳。……
 ※こう言う記事を全て公開しない朝日新聞の狙いは? 大東亜戦争を煽ったのが朝日新聞であり、当の朝日新聞はこの事実を忘れたのだろうか?
2015・3・10 THE PAGE (1/2ページ) 【戦後70年~大空襲】 
きょう3月10日は東京大空襲から70年、東京都復興記念館で戦災を学ぶ
「記事内容抜粋」
10万人を超える市民が犠牲になったと言われる東京大空襲から10日で70年を迎えた。
新聞やテレビで連日報道され、新事実も発掘される。
しかし、「東京大空襲がどういうものだったのか?」 という基礎も全体像も知らずにそうしたニュースに接している自分がいることに気づく。
東京大空襲の資料を展示する東京都立横網町公園の資料館を訪れた。
東京都墨田区にある総武線JR両国駅を下車すると、南に歩いて3分の場所に「回向院(えこういん)」がある。
ここに来ると東京が過去に何度も大きな災いを受け、大きな犠牲者を出してきたことを思い起こさせてくれる。
振袖火事として知られ、10万人の犠牲者を出したとされる 「明暦の大火」(1657年) の無縁仏を葬ったのが回向院の始まり。
死者10万人を出した1923年の関東大震災、東京大空襲による犠牲者も供養されている。
中略
1944年にマリアナ諸島が陥落して以降、東京は100回を超える空襲を受けた。
初めて死者が出たのは同年11月24日の空襲で、死者は224人。
1945年に入って米軍の爆撃は激しくなる。
1月27日には、銀座や有楽町などが爆撃され、539人が死んだ。
東京を襲った空襲のなかでも最も被害が大きかったのが3月10日の東京大空襲で、一晩で8万3793人が犠牲になった(数値は資料館の展示による)。
2015・3・10 朝日新聞デジタル 【戦後70年~大空襲】
東京大空襲、火葬場足りず仮埋葬 身元不明の死者2万人
「記事内容抜粋」
無数の焼夷(しょうい)弾による猛火の夜が明けると、焦土と化した下町が姿を現した。
路上には焼死体が折り重なり、川面には女性や子の遺体が浮かぶ。
約10万もの犠牲者は、身元確認も不十分なまま、公園や寺院に「仮埋葬」された。
東京大空襲から、10日で70年――。
  ■「忘れたら死者うかばれない」
2015・3・8 朝日新聞 【戦後70年~大空襲】
焼け野原だった地域、今の姿は 東京大空襲から70年
「記事内容抜粋」
約10万人が亡くなったとされる東京大空襲から10日で70年。
空襲直後に米軍が撮影した墨田区(当時は本所区)付近と同様の角度から朝日新聞社ヘリで現在の姿を見た。
東京スカイツリーが立ち、焼け野原だった地域に、びっしりとビルが並ぶ。
空襲直後の写真で左側を斜めに走る大横川は、現在は一部が親水公園に変わった。写真の上方に流れる隅田川の先には、今では月島や豊洲の高層ビルが並ぶ。
同空襲は1945年3月10日未明、米軍のB29爆撃機約300機が東京の下町に焼夷(しょうい)弾約33万発を投下。現在の墨田区、江東区、台東区を中心に約40平方キロが焦土となった。(嶋田達也)
 ※酷いもんだ。
アメリカ軍関係者は当時、皆この有様を知っているハズ、己らの蛮行を愚かと誰も反省しなかったのだろうか? この有様が戦争犯罪で無いとするなら、大日本帝国が犯したとされる戦争犯罪は何処にあるのだろうか? 
嘘つきシナには、アメリカ軍が爆撃機300機を使い焼夷弾30万発投下し、非戦闘員・日本人婦女子が10万人の大虐殺を実行した現場だが、想像が出来まい。
当時、大日本帝国軍の南京入城の動画がユーチューブにアップされているが、30万人もの大虐殺の痕跡が何処にあると言うのか? 
2015・3・7 読売新聞 犠牲者の年齢別グラフ掲載あり 「戦後70年~大空襲」
空襲で幼い命犠牲多数、初の年齢別調査で判明
記事内容抜粋」
太平洋戦争中の東京への空襲で、年齢が判明している犠牲者約1万7000人について精査した結果、2歳児の481人をはじめ、1~4歳の乳幼児が年齢別の死者数で上位を占めることが、「すみだ郷土文化資料館」(東京都墨田区)などの調査でわかった。
年齢別の犠牲者数の内訳が、東京の空襲に関して明らかになるのは初めて。
自力で逃げることができない幼子たちが、なすすべもなく犠牲になった空襲の実態を物語る。
都などは1951~55年、遺族の申告などを基に約3万人分の犠牲者名簿を作成。
その原資料が2001年に見つかり、同資料館など都内の4資料館の学芸員らが、年齢が判明している1万7294人分を精査した。
年齢別のデータで、最も犠牲者が多かったのは2歳の481人。
次いで3歳447人、1、4歳が各440人で、1~4歳の乳幼児で全体の1割強を占めた。
国民学校初等科(現・小学校)入学後の犠牲者は減り、特に10歳は145人、11歳は156人で、60歳未満の各年齢の中では0歳の142人に次いで少なかった。
3~6年生は地方へ学童疎開しており、犠牲者が少なくなったとみられる。
一方、6年生に相当する12歳は244人に増加。
1945年3月10日の東京大空襲では、卒業式のために都内に戻ってきた児童たちも犠牲になったとの従来の証言が裏付けられた。
また14歳は401人で、1~4歳に次いで5番目に多く、16歳389人、15歳383人。
戦時下、国民学校を卒業した少年らが勤労動員で工場に勤めていたことが関係するとみられる。
 ※アメリカよ、これでも戦争犯罪では無いと言うのか?
2015・3・9 産経ニュース (1/6ページ) 【戦後70年~大空襲(5)完】 中村将、豊吉広英、玉崎栄次、石井那納子、徳永潔、南昇平、大森貴弘
「マッカーサー通り」はウソだった GHQは都市整備に無関心 宙に浮いた後藤新平の夢…
「記事内容抜粋」
  「パリのシャンゼリゼ通りに匹敵する国際色豊かなプロムナードにしたい!」 
平成26年3月29日、東京都港区の新橋-虎ノ門間1・4キロを結ぶ「新虎通り」の開通式で都知事の舛添要一は笑顔であいさつした。 
幅40メートルで地下は自動車専用、地上は車道と広い歩道という二重構造。
道路上に超高層の「虎ノ門ヒルズ」(26年6月開業)がそびえ立つ。
すべて開通すれば新橋と臨海地域を直結し、2020(平成32)年の東京五輪・パラリンピックではメーンスタジアムの新国立競技場(新宿区霞ケ丘町)と選手村(中央区晴海)などを結ぶ役割を担う。 
この道路こそ、幻の大幹線道路といわれる「環状2号線」の一部である。
当初は幅100メートルの道路が、外堀通りに代わって新橋-蔵前橋を結ぶ計画だった。
かつてこの道路はGHQ(連合国軍総司令部)のダグラス・マッカーサー最高司令官にちなみ「マッカーサー道路」と呼ばれた。
「マッカーサーが虎ノ門の米国大使館と東京湾の竹芝桟橋を結ぶ道路を計画している」という噂がまことしやかに流れたからだった。
中略
20年8月15日。正午の時報の後、ラジオが「重大なる放送」を告げると、ほどなく昭和天皇の声が流れてきた。
  「もう、空襲はなくなるのか…」
  焦土と化した日本をどうやって再生するのか。
つづく
2015・3・8 産経ニュース (1/6ページ) 【戦後70年~大空襲(4)】 
米軍、地方都市にも容赦なく 防空壕から孫を追い出した祖母の愛 終戦前日にはアジア最大の軍事工場も廃墟に…
「記事内容抜粋」
  「孝輔、出てけ!」 
祖母はこう怒鳴ると、国民学校1年の樋口泰助(76)=孝輔から改名、福岡市在住=を猛烈な力で防空壕から押し出した。 
昭和20年3月10日の東京大空襲を“成功”させた米軍は地方都市にも容赦なかった。
6月19日深夜には、わずか30万人の商業都市にすぎない福岡市にもB29爆撃機221機が襲来。
天神や博多など市街地を挟み撃ちにするように西と東から焼夷弾を雨のように降らせた。
市内家屋の18%にあたる1万2千戸が被災し、1千人以上が命を落とした。
 ※軍関係の空爆は致し方が無いが、非戦闘員の民家目掛けた空襲は単なる大量殺戮にしか過ぎない。
これこそ、白人の思い上がりである。
現在尚、アメリカの謝罪すら無い。
アメリカの空襲の実態が掲載されている。
2015・3・7 産経ニュース 【戦後70年~大空襲(3)】
表参道の石灯籠 黒ずんだ台座に爪痕
「記事内容抜粋」
高級ブティックが並び、夜もきらびやかな東京・表参道の交差点。そのシンボルである2基の石灯籠は、若者らの待ち合わせ場所としてにぎわうが、その黒ずんだ台座は米軍による空襲の爪痕を今に残す。 
昭和20年5月24、25日の「山の手空襲」では2日間で約1000機のB29爆撃機が来襲し、新宿、渋谷一帯に6903トンの焼夷弾を投下、4000人以上が亡くなった。
大正9年の明治神宮創建時に建立された石灯籠も炎に包まれ、周囲は遺体で埋め尽くされた。
2015・3・6 産経ニュース 【戦後70年~大空襲(2)】
東京都慰霊堂 ともに眠る東京大空襲の犠牲者
「記事全内容」
東京都慰霊堂(東京都墨田区)には、昭和20年3月10日の東京大空襲の犠牲者の遺骨が納められている。
普段立ち入ることはできないが、毎年3月10日と関東大震災が起きた9月1日に法要が営まれる。 
大空襲直後、多くの遺体は火葬されず、公園などに仮埋葬された。
終戦後の昭和23~26年に掘り起こして荼毘に付し、関東大震災の犠牲者の遺骨を納めた都慰霊堂に一緒に納めた。
 ※混乱の中、被災者の確認もままならない状況でどうしたのかと案じていた。
敗戦時でもさすが日本人、手厚く葬ったのであろう。
アメリカ人よ、シナ人よ、朝鮮人よ、これが日本人だ!少しは見習え!
2015・3・6 産経ニュース (1/7ページ)  【戦後70年~大空襲(2)】
帝都を襲った「赤い悪魔」 おぶった子の死を気付かぬ母も 「町中すべてが真っ白け」
「記事内容抜粋」
昭和20年3月9日。
東京の下町には冷たい強風が吹き荒れていた。
翌3月10日は陸軍記念日。
巷では、この日を狙って米軍が大規模な空襲を仕掛けてくるのではないかといううわさが流れていた。 
このところ見かけることが減っていた子供の姿も、この日はやけに目立った。
国民学校の児童の多くは、学童疎開で地方生活を余儀なくされていたが、6年生は母校での卒業式に出席するため、自宅に戻っていたのだ。 
9日午後10時半、警戒警報が発令されたが、ほどなく解除された。
東京都浅草区(現台東区)でプレス工場を営む父とともに暮らす相原孝次(85)=神奈川県箱根町在住、当時15歳=は、多くの都民と同様に、いつでも避難できるよう靴下を履いてゲートルを巻き、枕元に鉄カブトや防空頭巾を置き、眠りについた。
中略
「子供の体が残っていればまだいい方。
中には首や腕、足がなくなった子供を背負っている母親もいました。
誰もが放心状態で目はうつろ。その様子は、地獄絵図でした」
 ※アメリカよ、この惨劇記事を読め! これこそアメリカが犯した戦争犯罪である。
2015・3・5 産経ニュース (1/3ページ) 【戦後70年~大空襲(1)】
なぜ米軍は東京大空襲を機に無差別爆撃に踏み切ったのか?
「記事内容抜粋」
先の大戦中の首都・東京への空襲は100回を超えるが、昭和20年3月10日の「東京大空襲」を機に、米軍は、一般市民をターゲットにした無差別爆撃に舵を切った。
なぜ米軍は戦術を転換したのか-。 
20年1月20日、後に「米空軍の父」と言われる米陸軍航空軍司令官のヘンリー・アーノルド大将(後に空軍元帥)は、爆撃で成果を上げられない日本空爆の指揮官、ヘイウッド・ハンセル准将を更迭し、欧州戦線などの爆撃で成果を上げたカーチス・ルメイ少将(後に空軍大将)を任命した。 
ルメイ氏は、それまでの軍需工場への精密爆撃をやめ、一般市民を多数巻き込む無差別都市爆撃を計画した。
ルメイ氏は戦後、自著で無差別爆撃を「全ての日本国民は航空機や兵器の製造に携わっている」と正当化している。 さらにルメイ氏は、高度1万メートル近い高高度昼間爆撃から2千メートル前後の低空夜間爆撃に切り替えた。
爆弾搭載量を増やすため機銃の大半は取り外させた。
3月の時点で護衛戦闘機はなく、もし敵戦闘機に襲われても反撃のすべはない。
B29搭乗員の多くは「死の宣告」と受け止めたという。
 ※アメリカは、大東亜戦争を起こした事の反省もせず、数々の災いを世界に撒き散らしているのだが、東京大空襲を実行し、老若男女、幼子から赤子までを大殺戮したアメリカ人の言い訳が醜く姑息で愚か過ぎると思うのだが・・・
日本本土大空襲は明らかにアメリカの戦争犯罪である。
2015・3・9 産経ニュース 桑原聡  いい記事である 
(246)間奏 II 骨力を養う30年に
「記事内容抜粋」
明日で東京大空襲から70年である。
米国は一般市民を計画的かつ無差別に殺戮(さつりく)した。
このあとに続く広島、長崎への原爆投下とともに堂々たる戦時国際法違反だ。
16世紀、残酷な宗教戦争の渦中に生きたフランスの文人モンテーニュは『エセー』にこう書いている。
  《すべての規律が戦争から逃げ出す》
戦争とはそういうものである。
だから戦争はギリギリまで避けなければならない。
人間の歴史を振り返れば、戦争を避けるために軍事力を保持するのは当然すぎることだろう。
日本国憲法前文のような世界観は、能天気に世界市民を名乗る歌うたいにでもまかせておけばよい。 
皮肉なことに、戦後のわが国は、米国の庇護(ひご)(同盟とも呼ぶ)のもとに、70年にわたる平和を享受してきた。
このまましばらくは米国の子分であり続けるのが、わが国にとって現実的な選択だろうとは思う。
ただし、「親分、それはだめだ。考え直した方がいい。そんな理不尽なことに私は付き合えませんよ」 と啖呵(たんか)を切れるような現実的な力と胆力を養っておくことが絶対に必要だ。
造艦技術将校で東京帝大総長になった平賀譲さんは 「骨力さえよければ事故も少なく、戦ってもなかなか沈まない軍艦ができる」 と言っていたという。
船はまず背骨にあたる竜骨を造り、ここから肋骨(ろっこつ)のような骨組みを造ってゆく。
これを見れば骨力のレベルが分かるというのだ。
これからの30年は、衰弱した骨力を養う時代にしたいものだ。
2015・1・5 ユーチューブ 
「アンブロークン」が触れない連合軍による強姦、捕虜殺害、死体損壊
「コメント」
米国の従軍記者だったエドガー・L・ジョーンズは、連合軍の犯罪について以下のように述べている。
「我々は冷酷にも捕虜を射殺し、病院を跡形もなく破壊し、敵の救命筏に対して機銃掃射を加え、一般市民を殺害し、虐待した。
そして、敵の負傷兵を皆殺しにし、瀕死だがまだ息のある者をほかの死体と一緒に穴に放り込んで埋めたのだ。
太平洋戦線では、ガールフレンドへのプレゼントにするため、死んだ日本兵の頭を茹でて肉を削ぎ落とし、その頭蓋骨をテーブルに飾る装飾品とし、またはその骨を削ってレターオープナーにしている。
我々は日本兵の肉体を切り刻み、その耳を切り取り、あげくの果てには金歯を抜き取って「土産もの」とした。
そんな目を覆うような悪行がどういう戦場心理によるものなのか、ということは未だに全く検討すらされていない」
日本の罪悪を、捏造までして叫んでいる一部の日本人は、こんな連合軍の罪悪を、声高に叫ぶことはない。
彼らはあくまで、日本の悪口にしか興味がないのである。
 
これが戦後の日本社会、敗戦利得者は利権を貪る為、一切口を噤んだのである。
2012・3・10 ユーチューブ 
アメリカの戦争犯罪に時効はない東京大空襲を忘れるな!
「コメント」
西村修平(2014・在特会)、児島謙剛、松田晃平、村田春樹、まきやすとも
平成24年3月10日
説明『西村修平ブログ』http://nipponism.net/wordpress/
主権回復を目指す会 http://www.shukenkaifuku.com/ 悪意にもとづく動画の転載、紹介などはお断りします。
 ※アメリカは、日本の東京を始め地方都市を国際法を犯し無差別攻撃を仕掛け、多くの婦女子を殺戮した事実を批判するのはいいが、日本は今、日米安保を必要としている悲しい現実がある。
2014・3・9 ユーチューブ 
百田尚樹VS田嶋陽子 バトル勃発!東京大空襲・原爆投下は虐殺か?
「コメント」
『東京大空襲は虐殺』というテーマに共感できるできないに「田嶋陽子」女史一人が共感できない。
大虐殺、原爆の昔から言われてきたことをなんで今更言うのという「田嶋陽子」女史と、戦後の洗脳思想と自虐史感が抜けつつある時代に来ているという「百田尚樹」のバトル
引用:たかじんのそこまで言っていいんかい(2014.3.9) 『緊急企画 もっとオレにしゃべらせろ!スペシャル』
2014・3・9 ユーチューブ 
百田尚樹「東京大空襲と原爆投下は大虐殺と人体実験だ!本当のことを言って何が悪い!」
「コメント」
作家の百田尚樹氏は、アメリカによる第二次世界大戦の東京大空襲は大虐殺であり、広島・長崎への原爆投下は、人体実験だったと発言しました。
百田尚樹氏は、アメリカ軍は東京大空襲で一般人を効率良く殺すために予行演習までしている。
これが大虐殺で無くて何が大虐殺なんだ! 本当のことを言って何が悪いと発言しています。
宮崎哲弥氏は、非戦闘員を殺害してはいけないという国際法に明確に違反していると解説しています。
 ※愚かな田嶋陽子が東京大空襲始め地方の大空襲、広島長崎の原爆投下による婦女子を狙った100万人の無差別大虐殺のアメリカの戦争犯罪を、ただ単に 「日本が悪いからと容認する」 この様な人間が何故生まれるのか?  不思議でならない。
2015・2・20 ユーチューブ   注目 嘘 
【10万人虐殺】 マニラ市街戦の真実!(第1話)
【10万人虐殺】 マニラ市街戦の真実!(第2話)
【10万人虐殺】 マニラ市街戦の真実!(最終回)
「コメント」
どこぞの国の仕業だとは言いませんが、現地に出向くとキムチの匂いがすることでしょう。
NHKなどの記事からです。